護皇神社

更新日:2024年02月07日

御祭神に和気清麻呂(わけのきよまろ)を祀る宇佐神宮の末社。

和気清麻呂公は奈良時代(769年)、皇位継承問題で揺れる朝廷の勅使として宇佐に派遣され、八幡大神より神託を受け国の危機を救った廷臣である。

護皇神社

護皇神社

和気清麻呂は岡山地方の名高い政治家の家に生まれ。家族の志を継いで彼は高官になり、数代の天皇の下で仕えた。女帝・称徳天皇の治世中、天皇の寵愛を受け権力をにぎった道鏡という僧侶が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という偽りの託宣をもってして皇位を奪おうと謀った。その神託の真偽を確かめるため、称徳天皇は厚く信頼する女官の和気広虫を宇佐宮に使わすことを決めた。しかし、彼女は体が弱かったため、彼女の弟である清麻呂が代わりを務めることとなった。宇佐の地に到着した清麻呂が、大尾山で神殿にひざまずき深く頭を下げると八幡神が現れ「皇室の血を引く人だけが天皇の位に就くべきである」と告げた。

大尾神社が鎮座する大尾山

大尾神社が鎮座する大尾山

神猪石

神猪石

その神託は道鏡非望を打ち砕いたが、道鏡の怒りをかった清麻呂は、足の腱を切られ大隅国(鹿児島県)へ流されてしまった。その道中、暗殺を謀って送られた道鏡の刺客から、突然の天地雷鳴や300頭あまりの猪の大群が清麻呂を護り、さらに宇佐へ詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきたと伝えられている。

道鏡の没落後、清麻呂は都に戻り、平安京遷都の最高責任者に任ぜられ、都づくりに尽力した。

またこの事件後、宇佐神宮への勅使(天皇の使い)は宇佐使、または和気使と呼ばれるようになり、和気氏が派遣されることが例となった。

護皇神社は、江戸時代末期にあたる19世紀半ば以前に、宇佐神宮の境内にある菱形池の島に創建されたが、昭和大造営(1932〜 1941)の際、現在の場所へ移された。護皇神社は、清麻呂が八幡神から託宣を受け取った場所である近くの大尾神社とともに令和2年(2020)に修復された。和気清麻呂は不幸から守り、災害を避け、足の怪我を癒す神様として崇められている。

明治15年「宇佐神宮境内見取絵図」

明治15年「宇佐神宮境内見取絵図」

戦前まで行われていた「和気祭」

戦前まで行われていた「和気祭」

昭和の大造営後に発行された絵葉書

昭和の大造営後に発行された絵葉書

護皇神社の本殿

護皇神社の本殿