宇佐神宮

更新日:2024年02月09日

室町時代「応永の古図」

室町時代「応永の古図」

宇佐神宮所蔵

人皇第15代の応神天皇を「八幡大神」として祀る八幡社は、全国に4万社以上鎮座するが、その総本宮が宇佐神宮である。八幡大神(応神天皇)・比売大神(多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命)・神功皇后(息長帯姫命)の三柱を御祭神として、国宝の本殿(一之御殿・二之御殿・三之御殿)に奉斎する。

神亀2(725)年に一之御殿が現在の亀山に創建されて程なく、廬舎那仏(東大寺大仏)造立や道鏡天位事件等で御神威を発顕され、以降、伊勢の神宮に次ぐ「第二の宗廟」として朝野の尊崇を集めてきた。

「蓑虫山人絵日記」に描かれた宇佐神宮 1
「蓑虫山人絵日記」に描かれた宇佐神宮 2

「蓑虫山人絵日記」に描かれた宇佐神宮(1864)

宇佐神宮は「神仏習合」の先駆けの神社でもある。草創期から明治の廃仏毀釈に至るまで、神社である「八幡宇佐宮」と寺院である「宇佐宮弥勒寺」が同一境内で祀られてきた。また国東半島に散在する「六郷満山」と称する天台寺院群は、八幡大神の化身である「仁聞菩薩」が開基と伝えられ、現在でも宇佐神宮神職と六郷満山僧侶との合同の祭典が営まれるなど、その歴史を今に伝えている。

六郷満山峯入り

六郷満山峯入り

法華八講

法華八講

仲秋祭

仲秋祭

宇佐神宮には、奈良時代から現代に至るまで、天皇の使者である「勅使」が数多く発遣されてきた。即位奉告・神宝奉献・臨時祈願などその目的は様々であるが、大正14(1925)年以降は10年に一度の差遣となっている。勅使が遣わされる神社を「勅祭社」と称し、現在は全国に僅か17社(伊勢の神宮を含む)が定められているが、京都より西の勅祭社は、出雲大社(島根)・宇佐神宮・香椎宮(福岡)の3社のみである。

上宮へ参進する勅使

上宮へ参進する勅使(平成17年 臨時奉幣祭)

宇佐神宮と日本の歴史

菱形池と小椋山

菱形池と小椋山

宇佐神宮の主祭神「八幡大神」は、人皇第15代の応神天皇が神格化された姿であり、古くから宇佐の地で崇拝されてきた三女神「比売大神」、応神天皇の母親である「神功皇后」と共に祀られている。

『八幡宇佐宮御託宣集』によると、八幡大神は571年に菱形池のほとりに初めてあらわれ、自分は応神天皇であり、日本を守護することを告げた。時代が奈良に入るころ、八幡大神は鷹居社に祀られ、その後、小山田社に移祀される。720年に起きた隼人の乱では、八幡大神は神輿に乗って出御(神輿発祥)、隼人討伐に尽力し、725年に現在の鎮座地である小椋山頂上に建立された一之御殿に祀られた。

「続日本記」によれば、737年には、新羅の無礼を奉告する伊勢神宮をはじめとする五社のうちに数えられた。740年に起こった藤原広嗣の反乱においても、八幡大神は神威を発揮。そして、東大寺大仏建立を契機に仏教の国家的守護神となった。その後も、聖武天皇の病気平癒祈願や、天皇に仕える僧が天位を狙った道鏡事件など国難のたびに国家と朝廷を守ってきた八幡大神は、奈良時代末期には、伊勢神宮とならぶ国家神として繁栄し信仰を集めた。

平安時代後半になると、武家が勢力を強める中、すでに九州最大の荘園領主であった宇佐宮大宮司の宇佐公通は、時の権力者であった平清盛と関係を強め、宇佐宮は神宮寺である弥勒寺と共に最盛期を迎える。

八幡大神の奈良東大寺行幸を再現した宇佐神輿フェスタ(2017)

八幡大神の奈良東大寺行幸を再現した宇佐神輿フェスタ(2017)

清盛が病死し、壇ノ浦の戦いで平家が滅んだ後、源氏が治める鎌倉時代におこった元寇では、人々は八幡大神に保護を求め、幕府は敵国降伏を祈願した。圧倒的な元の侵攻から日本を救った嵐は、八幡大神が吹かせた神風だと信じられた。しかし、この元寇により日本は疲弊し、武士の生活は困窮する。国家的な後ろ盾を失った宇佐宮は、武士に荘園を徐々に奪われ衰退していく。鎌倉時代末期に起こった大火によって宇佐宮は社殿を焼失。その後、時代は戦乱の世となり宇佐宮の復興もままならなかった。

足利義満が南北朝を統一し、豊前の守護に就いた大内盛見が、ようやく宇佐宮の再建に乗り出す。この時、制作された復興計画図が「応永の古図」である。上宮をはじめ、宇佐宮の社殿や弥勒寺のほか、境外の百体神社や浮殿、大元神社、薦神社などが描かれた壮大な計画は、十数年におよぶ大事業によって実現され、宇佐宮はかつての尊厳ある姿を取り戻した。

しかし、1467年におこった応仁の乱により、世は戦国時代を迎える。その末期、九州一円を支配していた大友宗麟は宇佐宮へ進軍し、本殿をはじめ多くの社殿を焼き払ってしまう。復興はなかなか進まなかったが、豊臣秀吉が九州を平定した後、中津に城を構えた黒田孝高・長政と細川忠興により再建された。

江戸時代中期にあたる1723年には、上宮や弥勒寺を焼失。この頃になると大名などからの援助は期待できず、庶民の寄付などによって復興が行われた。

江戸時代中期「宇佐宮境内図」

江戸中期「宇佐宮境内図」

宇佐神宮所蔵

江戸末期「宇佐宮絵図」

江戸末期「宇佐宮絵図」

宇佐神宮所蔵

幕末、王政復古が宣言され明治政府が誕生すると、明治元年に発せられた神仏判然令によって廃仏毀釈運動が全国に広まり、宇佐神宮でも弥勒寺をはじめ、境内の仏教景観は一掃されてしまう。しかし、その一方で、明治4年に制定された近代社各制度により宇佐神宮は、別格の伊勢神宮に次いで高い社各である官幣大社に位置付けられた。

明治6年「八幡大神宮境内図」

明治6年「八幡大神宮境内図」

昭和初期、10年にわたり行われた大事業「昭和大造営」(昭和7~16年)では、本殿をはじめとする多くの建造物が改築・改修された。また境内・境外の大規模な区画整理が行われ、宇佐神宮は今の配置となった。

現在、約15万坪を誇る敷地には、小椋山山頂に鎮座する上宮と麓の下宮を中心に、多くの末社や摂社が点在し、その境内は国の史跡に指定されている。また、宇佐神宮には、国宝と重要文化財が数多く所蔵されており、その長い信仰の歴史は、1300年経つ今もなお総本宮にふさわしい威容を誇っている。

宇佐神宮

参考文献:大分県教育委員会監修「宇佐・くにさきの歴史と文化財」

この記事に関するお問い合わせ先

都市計画課 景観・公園整備係
〒879-0492 大分県宇佐市大字上田1030番地の1 本庁舎2階

電話番号:0978-27-8181
ファックス:0978-32-2331

メールフォームによるお問い合わせ

ページに関する評価
このページは参考になりましたか?
このページは見つけやすかったですか?
このページの内容はわかりやすかったですか?