蓑虫山人と宇佐宮中
宇佐宮中
勅使街道沿いに鎮座する百体神社。かつて、その付近には無量寺、廣化寺、善空寺があり、ここ界隈は松隈と呼ばれ、宗教都市・宇佐宮中(うさぐうちゅう)の玄関口であり、この台地を降りた下の谷には、宇佐町と呼ばれる都市空間が広がり、宇佐宮の関係者以外は居住できない特別な場所であった。
現在の宇佐宮中
江戸末期の元治元年(1864年)5月、蓑虫山人は宇佐神宮を参拝し、宇佐宮中の風景をスケッチし、上・下巻合わせて80ページ余りある「蓑虫山人絵日記」の最初のページ残している。その絵図には、百体神社からの一直線の勅使街道、銅の鳥居、呉橋、仁王門をくぐると右手に弥勒寺の七堂伽藍、参道の両脇には商店が並び、多くの人が行きかう様子が描かれており、当時の宇佐宮中の賑わいを感じることができる。
蓑虫山人
蓑虫山人(みのむしさんじん)
蓑虫山人こと土岐源吾は、美濃国(岐阜県)の生まれで、幕末から明治にかけて全国を行脚した天衣無縫の自由人として知られている。14歳の時、母と死別し放浪の旅に出て、美濃出身であることと風雨に耐えて枝にぶら下がる蓑虫になぞらえて「蓑虫山人」と号した。彼は考古学、民俗学に造詣が深く、画家であり、造園家であるとともに勤王の志士でもあった。文久3年(1863年)には同志と共に生野銀山に尊王討幕の義挙を決行するも敗れ、九州に逃亡。元治元年(1864年)熊本より大分に入り、宇佐郡麻生村の禅源寺境内に犠牲となった同志の霊を弔うため鎮魂歌を300首刻み、慰霊の塔を建立した。
宇佐市には約3カ月間滞在し、宇佐郡山口村の大庄屋であった山口家に身を寄せた。その間、宇佐神宮をはじめとするこの地方の名所、旧跡、詩人や画家を訪ねては、その印象を画貼にしたため完成したのが「蓑虫山人絵日記」。その原本は、初代宇佐市長であり、名誉市民の故・山口馬城次氏宅に伝えられ、上下二冊分として昭和63・68年(1988・1993年)に復刻された。
上の絵図は「蓑虫山人絵日記(下)」の「おぼこ人形と小児の絵図」から抜粋した蓑虫山人本人を描いたもの。「おぼこ」とは世間ずれしていない無垢な乙女や子供などを形容する言葉であり、蓑虫山人はいつもこの「おぼこ人形」を懐にいだいて歩いていたという。
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更新日:2024年02月07日