大井憲太郎

更新日:2020年11月17日

大井 憲太郎(おおい けんたろう)

大井憲太郎
 大井憲太郎年表(1843年~1922年)
天保14(1843)年 宇佐郡高並村で誕生
嘉永  5(1852)年 豊前国温見村の医師 岩男浩然(こうねん)に入門し、四書五経(ししょごきょう)などを学ぶ
文久  3(1863)年 大井卜新(ぼくしん)と共に大阪へ。親交を深めて義兄弟となり、高並を改めて大井姓を名乗る
明治  3(1870)年 名を大井憲太郎と改める
明治  7(1874)年 通志社を興し「叢談」(そうだん)を刊行、東洋社を設けて書籍を出版して啓蒙活動を行う
明治10(1877)年 北畠道竜らと私塾「構法学社」を開く。その後分離独立させて「明法学社」を開く
明治14(1881)年 自由党が結成されるや入党、自由民権運動の第一線に
明治22(1889)年 新井新吾らと「大同協和会」を結成、会長となる
明治23(1890)年 立憲自由党と結成
明治28(1895)年 労働協会を設立して労働問題研究に先駆けて着手する。
明治33(1900)年 中村太八郎らが活動する普通選挙同盟会の評議員となる
明治38(1905)年 満州に渡り、労働者保護事業に従事
大正  6(1917)年 病のため満州より帰国
大正  8(1919)年 普通選挙運動の勢いが高まり、ハガキ運動を提唱
大正11(1922)年 東京牛込二十騎町(東京都新宿区)で逝去(満79歳)
大正14(1925)年 普通選挙法(改正衆議院議員選挙法)が成立(没後3年)

注釈 四書五経(ししょごきょう):中国の最も代表的な儒教の経典をさす。聖人や賢人の教義や実践が記されている。また、学問すべてをさしていうこともある。

大井憲太郎(本名:高並彦六(ひころく))は天保14(1843)年、宇佐郡高並村(現在の宇佐市院内町高並)に生まれました。

わんぱくな少年でしたが頭脳明晰で、20歳の頃に長崎で蘭学や洋学を、その後は江戸でフランス学や化学を学び、幕府の洋学教育研究機関である開成所に勤めました。

長崎で出会った医師・大井卜新の養子となって「大井」を名乗るようになり、憲太郎の「憲」は明治維新後に師事した法学者の箕作麟祥(みつくり りんしょう)が「Constitution」を憲法と日本語訳したときの一字をとったものです。

『国会開設と国民主権を求めて』

明治維新後は大学南校(東京大学の前身)で学び、フランスの法律書などを翻訳。

海外の進んだ法律を紹介し、日本が近代国家になるための地盤づくりに貢献しました。

明治維新で幕府は倒れましたが、以後数年は憲法や選挙、国会もないまま藩閥政治(主に薩長出身者による政治)続きました。

そこで板垣退助は明治7(1874)年に「民撰議院設立建白書」を提出し、国政は憲法のもと、民意で選ばれた議員が担うべきと主張しました。

これが自由民権運動の始まりといわれています。

運動は全国に広がりましたが、どのような選挙制度で、いつ国会を開設するかについてはなかなか意見がまとまりませんでした。

その中で早期の国会開設と、主権は国民に広く与えるべきと誰よりもいち早く主張したのが大井憲太郎です。

『ペンネームに込められた思い』

言論活動にあたり大井憲太郎が使ったペンネームの一つが「馬城山人」でした。

その由来は、ふるさと宇佐を象徴する御許山の別名・馬城峰(まきのみね)です。

ペンネームには憲太郎のふるさとへの思いが込められていたのです。 普通選挙法が日本で設立したのは、憲太郎が大正11(1922)年に満79歳で亡くなった3年後でした。

それまでの納税要件が撤廃されたとはいえ、選挙権が与えられたのは25歳以上の成人男性に限られ、憲太郎の理想とはかけ離れた極めて限定的なものでした。

それほど憲太郎の主張は時代を先駆けていたことを物語っています。

大井憲太郎関連事業

関連事業
日時 内容
平成30(2018)年12月 「宇佐学マンガシリーズ7」発行
平成31(2019)年  2月11日 「民権運動のパイオニア 大井憲太郎」出版記念講演会」

郷土の偉人顕彰シリーズ

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