蓑虫山人と宇佐宮中

更新日:2024年02月07日

宇佐宮中

勅使街道沿いに鎮座する百体神社。かつて、その付近には無量寺、廣化寺、善空寺があり、ここ界隈は松隈と呼ばれ、宗教都市・宇佐宮中(うさぐうちゅう)の玄関口であり、この台地を降りた下の谷には、宇佐町と呼ばれる都市空間が広がり、宇佐宮の関係者以外は居住できない特別な場所であった。

「蓑虫山人絵日記」に描かれた宇佐宮中

「蓑虫山人絵日記」に描かれた宇佐宮中

現在の宇佐宮中

現在の宇佐宮中

江戸末期の元治元年(1864年)5月、蓑虫山人は宇佐神宮を参拝し、宇佐宮中の風景をスケッチし、上・下巻合わせて80ページ余りある「蓑虫山人絵日記」の最初のページ残している。その絵図には、百体神社からの一直線の勅使街道、銅の鳥居、呉橋、仁王門をくぐると右手に弥勒寺の七堂伽藍、参道の両脇には商店が並び、多くの人が行きかう様子が描かれており、当時の宇佐宮中の賑わいを感じることができる。

蓑虫山人

蓑虫山人

蓑虫山人(みのむしさんじん)

蓑虫山人こと土岐源吾は、美濃国(岐阜県)の生まれで、幕末から明治にかけて全国を行脚した天衣無縫の自由人として知られている。14歳の時、母と死別し放浪の旅に出て、美濃出身であることと風雨に耐えて枝にぶら下がる蓑虫になぞらえて「蓑虫山人」と号した。彼は考古学、民俗学に造詣が深く、画家であり、造園家であるとともに勤王の志士でもあった。文久3年(1863年)には同志と共に生野銀山に尊王討幕の義挙を決行するも敗れ、九州に逃亡。元治元年(1864年)熊本より大分に入り、宇佐郡麻生村の禅源寺境内に犠牲となった同志の霊を弔うため鎮魂歌を300首刻み、慰霊の塔を建立した。

宇佐市には約3カ月間滞在し、宇佐郡山口村の大庄屋であった山口家に身を寄せた。その間、宇佐神宮をはじめとするこの地方の名所、旧跡、詩人や画家を訪ねては、その印象を画貼にしたため完成したのが「蓑虫山人絵日記」。その原本は、初代宇佐市長であり、名誉市民の故・山口馬城次氏宅に伝えられ、上下二冊分として昭和63・68年(1988・1993年)に復刻された。

上の絵図は「蓑虫山人絵日記(下)」の「おぼこ人形と小児の絵図」から抜粋した蓑虫山人本人を描いたもの。「おぼこ」とは世間ずれしていない無垢な乙女や子供などを形容する言葉であり、蓑虫山人はいつもこの「おぼこ人形」を懐にいだいて歩いていたという。

復刻された「蓑虫山人絵日記」

復刻された「蓑虫山人絵日記」

芝原善光寺で宝物を拝見する蓑虫山人

芝原善光寺で宝物を拝見する蓑虫山人

芝原善光寺は日本三善光寺の一つに数えられる。

蓑虫山人が描いた薦神社(大分県中津市)

蓑虫山人が描いた薦神社(大分県中津市)。宇佐神宮の摂社で、絵図にも描かれている三角池に自生する真薦(まこも)が、宇佐神宮の御神体の一つとされる枕に使われており、きわめて重要な神社。宇佐神宮の呉橋と同じ形式で造られた呉橋が境内にあり、絵図にも描かれている。

長洲中町の神光寺を訪れた蓑虫山人

長洲中町の神光寺を訪れた蓑虫山人。

神光寺は宇佐大宮司宇佐公則・公尊の開基といわれる。酒に酔った“狂人”愚道和尚に辟易しながらも「堪忍の虫」をおさえ堪える蓑虫山人の様子が描かれている。

筧白雅の楽天舎で行われた蓑虫山人の送別会

筧白雅の楽天舎で行われた蓑虫山人の送別会の様子。白雅は俳名で本名は文梁(ぶんりょう)といい、中津藩笠松に住む医師で、書画・短歌に堪能であり、蓑虫山人のよき理解者だった。別れを惜しまれつつ、蓑虫山人が去った3年後「御許山騒動」が勃発。その騒動で、中津藩は笠松の大庄屋邸に兵を出陣させたが、その陣容に名がある矢頭寛八郎、清水清太夫もこの送別会に参加しており、絵図に描かれている。

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