百段

明治44年の百段(ひゃくだん)
かつて、宇佐宮に仕える社僧の集落であった宮迫地区から南大門をくぐり、石段を上ると上宮にたどり着く。
この上宮の南側に位置する石段は百段と呼ばれ、弥勒寺をはじめとする宇佐宮境内にあった仏寺の多くの社僧が登ったであろう、神仏習合の歴史が伺える石段である。
「宇佐の百段数えて見れば、一つ足らずにござる」という言葉が残されているが、これは、かつて西大堀の蛇堀池に棲んでいた大蛇がこの百段を築いたという郷土伝説に由来している。
10年に一度行われる六郷満山峯入りでは、行者達が宇佐神宮奥宮である御許山の山頂に鎮座する大元神社に集まり、そこで前行を行った後、下山して百段を登り宇佐神宮本殿に参拝する。
元々は自然石が積まれたものであったが、昭和の大造営により花崗岩を使った立派な石段に新造され、入口には南大門が造営された。美しい姿に生まれ変わった百段だが、段数は郷土伝説のとおり、99段のままである。
南大門
郷土伝説 「蛇堀の池と宇佐の百段」
蛇堀池
養老という奈良時代の昔、宇佐原(現在の宇佐市西大堀あたり)の蛇堀の池という大きな池に大蛇が棲んでいた。大蛇は、この蛇堀の池だけに棲むことに満足しておらず、宇佐宮の菱形池も自分のものにしようと企てた。そこで、大蛇は八幡様に「宇佐宮に一晩で百段の石段を造るので菱形池に棲まわせてくれ」と願った。
八幡様は大蛇の魂胆を見抜いていたが、一晩で百段の石段を造ることはできないであろうと思い、その願いを許した。大蛇は大いに喜んで石段を造り始め、夜中に至らない中に九十九段まで築いてしまった。これに驚いた八幡様は、鶏に姿をかえて夜明けを告げた。このため、大蛇はしぶしぶ蛇堀の池に帰り、そこに棲んだ。
現在の百段
参考文献
・宇佐郡教育会編「宇佐郡誌」
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更新日:2024年02月07日