市長コラム「邪馬台国~清張の推理~ その5」(令和6年11月号)
邪馬台国~清張の推理~ その5
天皇の名に「神」の文字が入るのは、初代神武天皇、第10代崇神(すじん)天皇と第15代応神天皇の3人、皇后では神功(じんぐう)皇后だけです。神武は大和王朝の祖、崇神は畿内を統一したとされていますが、2人とも「初めて国を治めた男ハツクニシラススメラミコト」という尊称を持つ同一人物で、2代から9代は創作という欠史八代説が有力です。また、応神以降、銅鐸(どうたく)の破壊、巨大古墳の出現など急変しており、政権交代があったと言われています。
8世紀初めに編さんされた『古事記』『日本書紀』によると、畿内統一を果たした大和王朝は日本武尊(やまとたけるのみこと)の活躍など勢力を拡大。その子の第14代仲哀(ちゅうあい)天皇が熊襲(くまそ)征伐のため筑紫に至ると、神がかりとなった妻の神功皇后が「熊襲を攻めるより新羅を攻めろ」と命じたが、仲哀は従わず死んだとあります。神功皇后の子が応神ですが、妊娠期間の辻褄(つじつま)があわず仲哀の子ではないと言われています。この話は清張のいう変質した邪馬台国が、東遷して大和王朝の母体となったことを暗示しているように感じます。
邪馬台国は『記紀』には一切出てきません。実に不自然ですが、以上のような事情だとすれば合点がいきます。私は「神功皇后は鬼道を操る卑弥呼・台与(とよ)の末裔(まつえい)で、邪馬台国の存続を図るため騎馬民族のトップと結婚、子の応神天皇が政権交代を果たした。2人は卑弥呼らを比売大神(ひめおおかみ)として居住地であった宇佐に祀(まつ)った」と思うのですが、いかがでしょうか?
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更新日:2024年10月23日