市長コラム「邪馬台国~清張の推理~ その4」(令和6年10月号)
邪馬台国~清張の推理~ その4
宇佐神宮
私は令和5年2月号の市長コラムで、宇佐神宮二之御殿の比売大神(ひめおおかみ)は卑弥呼と述べましたが、その理由を『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』から検証してみます。
「卑弥呼は鬼道を巧みに操り、人心収攬(じんしんしゅうらん)の術に長けている。卑弥呼は壮年にして夫はいない。卑弥呼の身の周りには女ばかり千人が仕え、一人だけ居室に出入りできる男がいる。卑弥呼の死後、径百余歩の大きな塚(墳墓)が作られ、百余人の奴婢が殉死した」
宇佐神宮の位置は狗奴国(くなこく)から遠く安全で、筑後国山門郡(やまとぐん)から見て東、太陽が昇る神聖な方向にあります。この位置関係は飛鳥と伊勢神宮と同じです。神がかり状態になった巫女が、ご神託を告げるという宇佐神宮の特徴は、卑弥呼の伝統を受け継いだものと言えます。
また、宇佐神宮が鎮座する小椋山は古墳とは言えませんが、神宮造営の際、本殿の下から石棺が出たという説もあり、誰かが埋葬されたと思われます。なお、卑弥呼の死後、造られた径百余歩の塚や殉死した百余人の奴婢とは、大きな塚が造られ、多くの人が殉死したという意と考えられます。
その後の状況について清張は「帯方郡の滅亡後、朝鮮半島は騎馬民族的な性格を持つ北方系の種族が支配。その勢力が上陸し邪馬台国をのみ込み(変質した邪馬台国と清張は言う)狗奴国を敗北させた。北九州を統一した九州政権は東遷し、畿内大和王朝の母体となった」と推理しています。続く。
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更新日:2024年09月24日