市長コラム「邪馬台国~清張の推理~ その3」(令和6年9月号)
邪馬台国~清張の推理~ その3
鏡を掲げる卑弥呼
邪馬台国は筑後国山門郡(やまとぐん)(福岡県柳川市・みやま市付近)にあったと清張は結論付けました。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』と照らし合わせながら、清張説の風景をスケッチしてみます。
「邪馬台国は筑後川の肥沃な土地で農業を営む農耕民族国家だった。その南には狩猟民族の狗奴国(くなこく)(熊本県菊池市付近)があり、邪馬台国の富を長年にわたり略奪していた」
「邪馬台国は狗奴国からの防衛策として、後漢滅亡後に勃興した魏と連携を模索。鬼道を操る卑弥呼を立て、239年、魏の帯方郡から「親魏倭王」の金印などの獲得に成功。伊都国(いとこく)にあった一大率(いちだいそつ)(帯方郡の軍政官)の指導の下、邪馬台国以北の30余のクニと連携しながら狗奴国を牽制、平和を保った」
「魏・呉・蜀三国の争乱で魏が弱ると、狗奴国は再び侵攻。卑弥呼の援軍要請に帯方郡は応えることが出来ず滅亡。卑弥呼の死後、代わった台与(とよ)は新たに朝鮮半島を支配した勢力(後で詳述)と連携し狗奴国を撃退。なお、当時の畿内には大和王朝などの別のクニがあった」こんなところでしょうか。
私は清張説に賛同する一人ですが、一つだけ異なる部分があります。筑後国山門郡にあった邪馬台国は、常に狗奴国からの脅威にさらされており、カリスマ王である卑弥呼は安全かつ神聖な場所で鬼道に専念する必要があった。その場所こそ宇佐神宮が鎮座する宇佐の地であったと私は思うのです。続く。
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更新日:2024年08月26日