市長コラム「大砲を造る その2」(令和5年11月号)
大砲を造る その2
賀来千香子
江戸時代、宇佐市には「豊州御領」と呼ばれた島原藩の飛び地があり、その一部であった安心院町佐田地区は宿場町として栄えました。その地の有力者であった賀来家を25歳で継いだ惟熊(これたけ)は、ろうそくの原料として需要の高かった櫨(はぜ)を植林。また、溶かした金属を型に流し込み加工する鋳物(いもの)業を手掛けたほか、井堰(いせき)などの修復工事も度々行うなど、村人の利益や安全のために尽力しました。
余談ですが、女優の賀来千香子さんは惟熊の直系の子孫にあたります。宇佐学漫画シリーズの中で「先祖に大砲を造った人がいると聞いていた。惟熊の肖像画を見たとき、祖父に似ていると思い、親しみを感じた」とコメントしています。
アヘン戦争を機に海防強化が急がれる中、日出藩の家老であり儒学者の帆足万里(ほあしばんり)は、賀来家の財力や技術力に着目、師弟関係にあった惟熊に大砲造りを勧めます。惟熊は日出藩の注文に応じる形で、4人の息子たちとともに青銅製の大砲造りに着手します。
青銅砲造りに成功した惟熊たちは日出藩に納入しますが、青銅製は鉄製に比べ熱に弱く、飛距離でも劣ります。西洋の船には既に鉄製大砲が配備されており、鉄製大砲の開発が急務となりました。1853年、ペリー来航の年、惟熊たちは島原藩の許可を受け、鉄製の大砲造りに取り掛かります。続く。
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更新日:2023年10月25日