市長コラム「地租改正と宇佐の西南戦争 その3」(令和4年12月号)
地租改正と宇佐の西南戦争 その3
『宇佐ふるさとの歴史』より農民一揆
明治10年4月1日、中津から侵入した増田宋太郎率いる中津隊は、四日市・駅川の官公署などに続き、南宇佐の用務署を襲撃、吉成家や南一郎平の高森の家屋を焼き払います。翌日、大分に向かい府内城の県庁を攻撃しますが、固い防御に阻まれ攻略できず、由布院、阿蘇を経て5日、西郷軍と合流します。しかし、その時西郷軍は熊本の田原坂の攻防に敗れ、撤退を余儀なくされていたのでした。
一方、別動隊を指揮していた松本大五郎は軍資金調達や募兵のため宇佐に残りますが、豊後高田の民衆に竹槍で刺され落命。宇佐に吹き荒れていた農民一揆は、東京警視隊の応援により、6日、ようやく鎮圧されます。
その後、西郷軍は宮崎・大分方面に転戦しますが、8月、延岡の和田越の戦で政府軍に敗れると、西郷隆盛は陸軍大将の軍服を燃やし、解軍を命じます。中津隊も解散となりますが、増田宋太郎は「一日先生に接すれば、一日の愛生ず。三日先生に接すれば、三日の愛生ず」として西郷と生死を共にしました。
西南戦争は士族の反乱でしたが、色濃く残る封建時代の搾取や新政府の急激な改革などに苦しむ農民らがそれに乗じた一面もありました。反政府勢力の期待を一身に受けた西郷でしたが、鹿児島の城山で最期を遂げると、その後は言論により新政府に対抗する自由民権運動が展開されます。
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更新日:2022年11月15日