市長コラム「軍司官兵衛の夢 その2」(令和2年11月号)

更新日:2023年04月06日

軍司官兵衛の夢 その2

高森城跡

慶長3年(1598年)、秀吉が没すると徳川家康と石田三成の対立が激化。慶長5年6月、上杉景勝(かげかつ)が会津で兵をあげると、家康は諸将を従え上杉討伐へ向かいます。官兵衛の嫡男長政も兵5400を率いて参戦。そのような中、7月、三成が挙兵。上杉討伐隊は三成を討つべく引き返し、9月、関ヶ原で激突します。

中津城にはわずかな守備兵が残るのみでしたが、三成挙兵の報を受け、官兵衛は『この度の戦は決着までに時間がかかる。その間、九州を平らげ故郷の姫路に入り、戦の勝者と雌雄を決すれば天下が盗れる』と考えます。

官兵衛は蓄えた金銀で兵を集め、諸将を含め兵9000の陣容を整えると、豊後国平定をめざし9月9日出陣します。平太夫(へいだゆう)は第6陣の大将に任じられ、高森城で一宿した後、高田城へ向かいます。煮え切れぬ城主竹中重隆(竹中半兵衛の従兄弟)を恫喝(どうかつ)して傘下に加え、国東半島の赤根峠に陣を構えた時、東軍細川忠興(ただおき)の飛び地である杵築城主の松井康之から救援要請を受けます。

朝鮮出兵の際の失態で豊後国を失った大友義統(よしむね)(大友宗麟の嫡男)が旧領奪還をめざし攻めていたのです。官兵衛は平太夫ら兵3000の別働隊を急行させます。別働隊が城を囲む大友勢を攻撃、城内の細川勢も打って出ると、大友勢は退却しました。次号へ続く。

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