市長コラム「九人ヶ峠と血野」(令和元年6月号)

更新日:2023年04月06日

九人ヶ峠と血野

九人ヶ峠

国道387号から安心院に入る時、必ず越える九人ヶ峠ですが、この峠には悲話があります。安心院地域は宇佐神宮宮司の家系で、安心院庄の地頭の系譜を持つ安心院氏が治めていました。戦国時代には有力大名の板挟みとなり、大内氏が滅ぶと大友氏の傘下に入ります。竜王城を任された安心院公正は大友宗麟の麟の字をとり、麟生と改名しています。

しかし、天正6年(1578年)大友軍が日向国高城・耳川合戦で島津軍に大敗すると、麟生は大友氏からの離反を決意。激怒した宗麟は部下の田原紹忍に命じて麟生が籠城する竜王城を攻め自害に追い込みます。嫡男の千代松丸については、夫人が田原紹忍の娘であったことから、婿と舅で子どものお祝いをしようと誘い出し、帰路伏兵により闇討ちします。安心院から迎えに出た9人の家来がその場に駆け付けた時は既に惨殺された後でした。

主君を守れなかった9人の家来は責任を取って切腹、鮮血に染まります。この史実にちなみ人々はその峠を「九人ヶ峠」、惨劇の行われた場所を「血野」と呼ぶようになったとのことです。現在では「血」という文字を忌み嫌い「知野」と改名されていますが、峠を通るたびにこの悲話を思い出します。

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