市長コラム「隼人の乱と放生会 その1」(平成30年9月号)

更新日:2023年04月07日

隼人の乱と放生会 その1(H30.9月号)

続日本紀によると、和同7年(714年)九州南部を支配する隼人を律令国家に組み入れるため、法律や仏教文化の進んだ豊前国から民200戸を大隅国に移住させたとあります。律令制とは平たく言えば稲作を前提に、人民に対し一律に耕作地を支給する代わりに租税などを課す制度です。しかし、稲作に適していないシラス台地に住む隼人にはなじみません。養老4年(720年)には、国守が殺害されるという大規模な反乱が起きます。

大和朝廷は万葉の歌人でもある大伴旅人を征隼人持節大将軍として派遣。戦勝祈願された八幡神は自ら遠征すると託宣します。薦神社の三角池の真薦で作った枕を御神体とした「神軍」には、後に初代弥勒寺別当となる法蓮の姿もありました。九州各地から1万人以上の兵を集めた朝廷軍。隼人軍も7カ所の砦に立て籠もり応戦します。膠着状態が続く中、八幡神は戦場で傀儡子(あやつり人形)を舞わせ、見物していた隼人軍を攻め勝利を得たとされています。

1年半におよぶ隼人の乱を勝利に導き、意気揚々と地元に凱旋した八幡神でしたが、その後苦しむこととなります。続きは次回で。

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