市長コラム「赤尾丹治」(平成30年2月号)
赤尾丹治(H30.2月号)
文化9年(1812年)8月、赤尾村の大庄屋赤尾丹治は強訴・打ちこわしの首謀者として中津藩から斬首されました。享年46歳。
丹治は養父が手掛けた赤尾井出の工事を引き継ぎますが、難工事で資金が枯渇。領主である中津藩にお願いし、5年間の年貢上乗せを条件に資金調達し工事を完成させます。水路延長約3里、11カ村が恩恵を受けました。ところが、期限を過ぎても年貢の上乗せが続き、抗議しても現地役人が取り次がず、7名の同志とともに直訴しようと考えます。
このような中、大飢饉が発生し、重い年貢などに苦しんでいた農民の怒りが爆発、「文化一揆」と呼ばれる大騒動へと発展しました。赤尾村でも血気にはやる人々が続出。丹治も抑えきれず、死罪覚悟で立ち上がります。中津・豊前にも飛び火した一揆衆2万は、庄屋を打ちこわしながら中津城へと迫りますが、鉄砲隊の前に総崩れ。丹治は死罪となります。
「悪虫や 生れかはりて 弥陀の国」
丹治辞世の句です。約100年後、無実の罪が晴れ、記念碑が建てられました。丹治が造った井出は今なお大地を潤しています。
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更新日:2023年04月07日