市長コラム「地租改正と宇佐の西南戦争 その2」(令和4年11月号)

更新日:2022年10月25日

地租改正と宇佐の西南戦争 その2

増田宋太郎

増田宋太郎

  明治10年、西郷隆盛を盟主とする士族の反乱、西南戦争が始まると、各地で呼応する動きが出ます。同年3月31日、中津士族の増田宋太郎は同志とともに中津隊を名乗って蜂起します。宋太郎の母は、九州国学三大家の一人である渡辺重名の娘で、福沢諭吉とは従兄弟にあたります。

  尊皇攘夷(そんのうじょうい)派だった宋太郎は、諭吉の帰郷した際を狙って暗殺しようと企てます。しかし、逆に諭吉に諭され慶應義塾で学ぶと、地元に帰り田舎新聞を発行するなど、新政府を批判する立場で活動していました。

  中津隊60人は宇佐、大分を経由し、熊本の田原坂で奮闘する西郷軍への合流を目指します。政府役人や区長らを《人民を苦しめ、無用の民費を増し、私欲を図る輩》と檄文(げきぶん)で糾弾しながら、白鉢巻きに抜身の刀をかざして進撃、軍資金目当てに中津支庁、四日市警察、役所、豪商らを次々と襲撃します。

  ちょうど「公金割戻し」運動で区長らともめていた敷田村や赤尾村の農民たちは檄文が届くと竹槍やムシロ旗を掲げて暴徒化、学校、区長宅などを壊し金品を奪います。この動きは大根川、下庄、高家、森山、乙女、四日市、辛島、上田、法鏡寺、院内にも飛び火。また、中津隊の一員である橋津出身の松本大五郎は本隊とは別に柳ケ浦、長洲、蜷木、松崎、豊後高田まで襲撃しました。続く。

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