ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

大井憲太郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年3月15日更新

大井 憲太郎(おおい けんたろう)

大井憲太郎

 大井憲太郎年表(1843年~1922年)

天保14年
(1843年) 
宇佐郡高並村で誕生
嘉永5年
(1852年)

豊前国温見村の医師 岩男浩然に入門し、四書五経などを学ぶ

文久3年
(1863年)

大井卜新とともに大阪へ。親交を深めて義兄弟となり、高並を改めて大井姓を名乗る
明治3年
(1870年)
名を大井憲太郎と改める。

明治7年
(1874年)

通志社を興し「叢談」を刊行、東洋社を設けて書籍を出版して啓蒙活動を行う
明治10年
(1877年)
北畠道竜らと私塾「構法学社」を開く。その後分離独立させて「明法学社」を開く。
明治14年
(1881年)
自由党が結成されるや入党、自由民権運動の第一線に
明治22年
(1889年)
新井新吾らと「大同協和会」を結成、会長となる
明治23年
(1890年)
立憲自由党と結成
明治28年
(1895年)
労働協会を設立して労働問題研究に先鞭をつける
明治33年
(1900年)
中村太八郎らが活動する普通選挙同盟会の評議員となる
明治38年
(1905年)
満州に渡り、労働者保護事業に従事
大正6年
(1917年)
病のため満州より帰国
大正8年
(1919年)
普通選挙運動の高潮にあたりハガキ運動を提唱
大正11年
(1922年)
東京牛込二十騎町(東京都新宿区)で逝去
大正14年(1925年)普通選挙法(改正衆議院議員選挙法)が成立

 大井憲太郎(本名:高並彦六)は天保14年、宇佐郡高並村(現在の宇佐市院内町高並)に生まれました。
 わんぱくな少年でしたが頭脳明晰で、20歳の頃に長崎で蘭学や洋学を、その後は江戸でフランス学や化学を学び、幕府の洋学教育研究機関である開成所に勤めました。
 長崎で出会った医師・大井卜新の養子となって「大井」を名乗るようになり、憲太郎の「憲」は明治維新後に師事した法学者の箕作麟祥が「Constitution」を憲法と日本語訳したときの一字をとったものです。

『国会開設と国民主権を求めて』

 明治維新後は大学南校(東京大学の前身)で学び、フランスの法律書などを翻訳。
 海外の進んだ法律を紹介し、日本が近代国家になるための地盤づくりに貢献しました。
 明治維新で幕府は倒れましたが、以後数年は憲法や選挙、国会もないまま藩閥政治(主に薩長出身者による政治)続きました。
 そこで板垣退助は明治7年に「民撰議院設立建白書」を提出し、国政は憲法のもと、民意で選ばれた議員が担うべきと主張しました。
 これが自由民権運動の始まりといわれています。
 運動は全国に広がりましたが、どのような選挙制度で、いつ国会を開設するかについてはなかなか意見がまとまりませんでした。
 その中で早期の国会開設と、主権は国民に広く与えるべきと誰よりもいち早く主張したのが大井憲太郎です。

『ペンネームに込められた思い』

 言論活動にあたり大井憲太郎が使ったペンネームの一つが「馬城山人」でした。
 その由来は、ふるさと宇佐を象徴する御許山の別名・馬城峰(まきのみね)です。
 ペンネームには憲太郎のふるさとへの思いが込められていたのです。

 普通選挙法が日本で設立したのは、憲太郎が大正11年に満79歳で亡くなった3年後でした。
 それまでの納税要件が撤廃されたとはいえ、選挙権が与えられたのは25歳以上の成人男性に限られ、憲太郎の理想とはかけ離れた極めて限定的なものでした。
 それほど憲太郎の主張は時代を先駆けていたことを物語っています。

大井憲太郎関連事業

日時内容
平成30年12月「宇佐学マンガシリーズ7」発行
平成31年2月11日「民権運動のパイオニア 大井憲太郎」出版記念講演会」

郷土の偉人顕彰シリーズ

双葉山定次(第35代横綱)

賀来惟熊(大砲製造)

賀来飛霞(本草学)

松田新之助(石橋)

宇佐海軍航空隊

南一郎平(疎水)

石川武美(主婦の友)

意見をお聞かせください

お求めの情報が十分掲載されていましたか?
ページの構成や内容、表現は分かりやすいものでしたか?
この情報をすぐに見つけることができましたか?
このページに対するご意見・ご要望を記入してください(個人に関する情報は記入しないでください)。なお、お答えが必要なご意見等はこちらではお受けできません。直接担当部署または市へのご意見・ご提案へお願いします。
※いただいたご意見は、より分かりやすく役に立つホームページとするために参考にさせていただきますので、ご協力をお願いします。