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南一郎平

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年5月31日更新
南一郎平

南一郎平年表

天保7年宇佐市金屋で生まれる
慶応元年広瀬井手の第5期工事に着手
明治2年

松方正義日田県知事が水路の視察を行う
国による直営工事の許可が下りる

明治3年国からの援助が終了
明治6年広瀬井手完工
明治7年松方正義の招きにより上京、内務省農務課に勤務
明治8年全国に水利開墾事業を興すため適地調査に派遣

明治11年

安積疎水工事着工準備担当として現地で指揮する
明治14年北垣国道京都府知事より琵琶湖疎水計画の実地調査依頼
明治15年琵琶湖疎水の意見書、水利目論見書を提出
明治16年那須疎水開削のため測量実施
明治19年退官し「現業社」を興す
明治32年一郎平を「尚」と改名
大正8年死去

 南一郎は、天保7(1836)年、宇佐市金屋の庄屋の子として生まれました。当時、一郎平の住む駅館川流域の台地は水不足で畑地としてしか利用されておらず、父・宗保は西国筋郡代(日田代官)塩谷大四郎の広瀬井手事業に協力していました。しかし、事業は困難で完成を見ないまま安政3(1856)年、宗保が死去します。一郎平は、「米を作り地域を豊かにするように」との宗保の遺言から、米を作るにはまず水を引くことと水利事業に取り組むことになりました。
 一郎平は「一日学」「自彊不息」を座右の銘に努力を続け、誰も不可能だった広瀬井手を完成させました。
 広瀬井手完成後は、安積、那須、琵琶湖と明治の三大疎水といわれる工事にかかわり、疎水事業の父と言ってもよい活躍をしています。のちに広瀬井手完成を感謝した地元の人からのお米の提供を断るなど、人々を豊かにすることに生涯を捧げました。

※「一日学」:今日一日だけはと努力し続けると、一生続けて学ぶことができること。
※「自彊不息」:休みなく努力し、自己を強化すること

広瀬井手

 広瀬井手は、宇佐市院内町広瀬の取水口からはじまり、宇佐市長洲まで総延長17キロに達する水路です。難所が多く、4度工事が中断されています。
 広瀬井手の総事業費は三万六千両とされており、この事業費の多くを日田の豪商・広瀬久兵衛から借用しました。当初は三千両の借用でしたが、難工事のため借金を重ね一万両以上を借りることになりました。一郎平は同時に公金も数千両借りており、借金は全部で二万両になったとされています。
 明治2(1869)年、資金の尽きた一郎平は長崎総督府に広瀬井手工事の助けを求めました。総督府は松方正義日田県知事に調査させ国の事業としました。この調査によって一郎平の高い技術力を知った松方は、広瀬井手完成後、内務省の技師として一郎平を採用することとなります。
 明治6(1873)年、約120年の歳月をかけて完成した広瀬井手により、水不足で粟や稗などしかできなかった駅館川東岸の台地は肥沃な水田地帯に変わりました。

三大疎水

 明治8(1875)年、一郎平は松方正義に招かれて内務省の土木部門で働くこととなり、安積疎水(福島県)、那須疎水(栃木県)、琵琶湖疎水(京都府)の工事にかかわりました。
 安積疎水は、明治15(1882)年に開通し、水利が悪かった安積平野を肥沃な穀倉地帯に変えました。一郎平は政府の命を受け、東北の開墾地調査を行った段階からかかわり、測量、設計、工事監督に従事するなど、現在までの安積疎水の基礎を作り上げました。
 那須疎水は、保水性が悪く、灌漑用水どころか飲料水にすら事欠いていた那須野ヶ原に開削されました。一郎平は総監督として指揮にあたり、約16kmにおよぶ本幹水路を5ヶ月で完成させました。
 琵琶湖疎水は、明治維新による東京遷都により衰退していく京都の産業振興を図ろうと計画されました。一郎平は京都府の依頼により現地に赴いて、琵琶湖からどのように水を引いたらよいか、通水を始めると琵琶湖の水位がどの程度下がるかなどを調査しました。この調査結果をまとめた「琵琶湖水利意見書」「水利目論見表」をもとに工事が進められました。
 このように一郎平は、三大疎水事業に大きな足跡を残しています。

南一郎平関連事業

日時内容
平成27年7月7日~7月9日日本三大疎水をめぐるツアー
平成28年3月「宇佐学マンガシリーズ5」刊行
平成28年3月19日

南一郎平の偉業をたどるバスツアー
「日本三大疏水の父 南一郎平」出版記念講演&フォーラム

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日本三大疎水の父 南一郎平~宇佐市インターネット放送局~

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