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光岡城跡

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年6月1日更新

 光岡城跡光岡城跡の写真

 宇佐市長峰には、16世紀に赤尾氏が戦の際に立てこもったとされる光岡城跡が今もなお史跡公園として残されています。
 光岡城跡は、高さ130mの山の上につくられた城跡で、その面積は南北140m、東西80mあり、発掘調査によると山の斜面を切り開いて平らな部分をつくり、見晴らしの良い北側に物見やぐらを含む6棟の建物が建てられていたとされています。また、当時この建物の周囲には柵などにより迷路のように入り組んだ通路がつくられており、外側は敵が攻めてくるのを防ぐため、高さ2m以上の土塁と深さ6mの堀があったことが分かっています。さらに、その外側にも土塁や石垣がつくられており、当時の戦いの激しさが想像されます。

 さて、赤尾氏とはどんな人物だったのでしょう。

 赤尾氏は、大内氏が宇佐地方を支配していた戦国時代頃に重要な仕事を任されていた人物であり、また豊前国が大友氏の支配となった1557年頃からは、四日市の渡辺氏や高家の中島氏などと共に有力な大友方だったと伝えられています。しかし、天正6年(1578)、大友氏が日向遠征で大敗した後、豊前国は大友方と反大友方に分裂し大友方であった赤尾統秀は、反大友方の軍勢から攻められ、「宅所(館)※1や切寄(光岡城)が攻撃された」という記録(佐田文書)も今に残されています。

 また、この史跡公園には、城山として光岡城跡が登場する横光利一の「旅愁」文学碑も建立されています。

※1 宅所とは谷部につくられた館で、切寄とは光岡山上に築かれた詰城(つめじろ)であったことがわかります。

施設情報

 無料駐車場・トイレあり

地図