| 宇佐郡四日市村歴史年表(四日市村年代記:宇佐市史) |
| 西暦 | 年号 | 年 | 月 | 内 容 |
| 1183 | 寿永 | 2 | 9 | 平氏、安徳天皇を奉じて宇佐宮に参る |
| 10 | 緒方惟栄ら太宰府を襲い平氏を追い落とす | |||
| 1184 | 元暦 | 元年 | 7 | 緒方惟栄ら宇佐八幡神殿を焼き討ちにする |
| 1185 | 平氏が滅ぶ。源頼朝が守護地頭を置く | |||
| 1250 | 建長 | 2 | 善光寺本堂が建立される | |
| 1390 | 明徳 | 嵯峨天皇の御子、河原左大臣源融公玄孫渡辺源綱より、基本、肥前の国上松浦より出でて、防州山口大内家の幕下たり。明徳中、左京太夫義弘公の恩賞に預かり、当国高家郷四日市村に往来、衣食の地三百貫の所帯也 | ||
| 1558 | 永録 | 元年 | 地頭筑後守渡辺光其の重臣をして旧居城たりし肥前国松浦郡波多郷鬼子獄城に遣はし、祭神を土地繁栄の氏神として蛭子宮を当地に奉還せるなり | |
| 1562 | 永録 | 5 | 武士、渡辺統綱が真宗に帰依し、法名を専養と賜り、道場を建て”専養坊”と称した | |
| 1581 | 天正 | 9 | 11 | 大友宗麟、宇佐宮焼き討ちを行う |
| 1589 | 17 | 10 | 黒田長政、宇佐八幡宮に神領300石を寄進 | |
| 1593 | 文禄 | 2 | 渡辺加賀守統述無常を感じ出家、真勝寺は山本あたりにあった | |
| 1599 | 慶長 | 4 | 四日市は中世以来の市場町であり、町場を形成していた四日市村年代記始まり | |
| 1600 | 慶長 | 5 | 10 | 細川忠興、宇佐宮へ500石の神領を寄進 |
| 1617 | 元和 | 3 | 細川忠興が、放生会を再興 | |
| 1652 | 慶安 | 5 | 4 | 源昌院建立 此寺天正巳後久敷破滅に付此度再建住持入る |
| 1686 | 貞亨 | 3 | 11 | 24晩四日市大火事 92軒焼 |
| 1674 | 延宝 | 2 | 統述の長男正願が寺を継ぎ常徳から四日市の中屋敷へ移転 | |
| 1698 | 元禄 | 11 | 4 | 岡田庄大夫俊陳、宇佐郡四日市陣屋に着任 |
| 1699 | 元禄 | 12 | 天領豊前四日市代官に岡田俊陳を任命 | |
| 1700 | 元禄 | 13 | 6 | 四日市陣屋普請に取懸かり・・・大工は入札にて、中津桜町五左衛門落札、 銀拾三貫二百目也 |
| 1707 | 宝永 | 4 | 6 | 四日市大火 町中不残焼失 宮、源昌院其外棟数百拾軒余焼失 |
| 1708 | 宝永 | 5 | 7 | 桜岡神社造営10月15日棟上 21日御遷宮ある |
| 1710 | 宝永 | 7 | 当年より又々古例を引、毎月四日御夷の前にて市立、町内講中より石燈篭七基宮に寄進。祭座始まる | |
| 1711 | 正徳 | 元年 | 徳川幕府の布政所を四日市に設置するにあたり禅宗源昌院の鎮守なりしを土地繁昌五穀豊饒の祈願所として稲荷宮を勧請せるなり | |
| 1716 | 正徳 | 12 | 四日市大火 上の方不残焼失。本家35軒焼失。当家20軒丸焼 | |
| 1720 | 享保 | 5 | 8 | 宇佐下毛郡の幕府領、日田代官所支配地となる |
| 1725 | 享保 | 四日市大火 12月24日晩四つ時過、町並41軒焼失 | ||
| 1729 | 享保 | 14 | 大ひでり損 飢饉打続4月より雨不降 溜池殆水乏し | |
| 1732 | 享保 | 17 | 香下に井堰が造られ、桂がけ井堰は、山本、大塚、常徳をとおって四日市まで完成した。四日市の庄屋、渡辺茂衛門綱幹が実行。 工費見積は19貫741匁3分、実際は萬屋宗綱が引き受けた | |
| 1733 | 享保 | 18 | 去年来西国餓死人のもの17万人。諸国寺疫大流行。 当地では畑方相応に出来、田方は珍しく大豊作 | |
| 1736 | 元文 | 元年 | 四日市陣屋屋敷の普請が行われる | |
| 1737 | 元文 | 2 | 四日市真勝寺宗順と塔頭の間に紛争が発生(真勝寺事件)別院騒動 真勝寺住持宗順不行跡、高利金借用 殺生を好み魚鳥生物の料理 | |
| 1743 | 寛保 | 3 | 3 | 西派の僧、門徒は真勝寺を明渡せと寺に押しかけた 真勝寺三ヶ寺輪番持、宗順改派、発頭教覚寺、西派真勝寺占領、西派輪番 立ち退きをせまる、宗順西派につき真勝寺に手切、東西坊主御堂にて攻防、御堂修羅道、輪番半死半生、・・・ |
| 1743 | 寛保 | 3 | 4 | 輪番の西賢寺が江戸の寺社奉行大岡越前守に訴え、一件について吟味が始まる |
| 1743 | 寛保 | 3 | 9 | 森山教覚寺始西派21ヶ寺が江戸へ呼び出される |
| 1743 | 寛保 | 3 | 12 | 裁決、宗順は八丈島に、教覚寺は鬼界島に遠島、寺、山林、田畑迄公儀え召し上げ財産は村預かりとなった |
| 1744 | 寛保 | 4 | 真勝寺は東本願寺へ下され東派別院となる | |
| 1745 | 延亨 | 2 | 真勝寺は、九州御坊となった。 西派は、川部の正明寺を四日市に移し、本山兼帯所とした | |
| 1746 | 延亨 | 3 | 法如上人のとき、門徒が西派東派に分かれ、それぞれの寺を別院とした | |
| 1749 | 寛延 | 2 | 寺を建築、のちに御坊と称し大建築に作り変えた | |
| 1802 | 享和 | 2 | 尾張の商人菱屋平七が、彦山詣をした時の旅日記”筑紫紀行”に記された四日市の様子。”人家百軒計。多く茅屋にて町並よからず。商家、茶屋、宿屋もありて其の外は皆瓦師なり。” | |
| 1839 | 天保 | 10 | この頃伊勢山塾を開く敷田年治先生。第2代教授野本白岩嘉永元年その後を継ぐ | |
| 1850 | 嘉永 | 3 | 四日市郷校再開、教授招聘を広瀬淡窓に依頼し、青木錦村が推薦されて就任読書が普及した | |
| 1856 | 安政 | 3 | 広瀬淡窓に師事して儒学を修めた長梅外が第4代教授に就任彼の長男三州も21歳、四日市に居住して、教授にあたり、大いに勤王思想を鼓吹した。 幕府の権威は完全に失墜し、尊王攘夷の思想は国中にみちあふれていた。 | |
| 1862 | 文久 | 2 | 白石照山先生四日市郷校の最後の教授となる。明治2年までおられた。 | |
| 1868 | 明治 | 元年 | 1 | 佐田秀ら、長州浪士60余人と四日市陣屋を襲い御許山に拠る(御許山騒動) |
| 1891 | 明治 | 24 | 幕府領であった石田・葛原・城・吉松・東今井と中津領の西今井が合併して四日市村となっていたが、四日市町となった。 | |
| 1919 | 大正 | 8 | 宇佐史談会発足 | |
| 1967 | 昭和 | 42 | 駅川・四日市・長洲・宇佐町合併により宇佐市となる |